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2月6日、北斎の雪景色

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しんしんと舞い落ちてくる雪の景色を、夢で見た。

るりちゃんの手紙に、

たくさんの雪が降っていたからかもしれない

恋人の見せてくれた北斎の絵の中で、

虎が悠々と闊歩していた景色も雪だった。

でも、そういえば眠る前に写真を見た。

わたしの夢の景色はわたしのよく知っている部屋の窓から見たものだった。

夢を見ると死ぬときにわたしは一体何を、誰を思い出すんだろうと思う。

 

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夢とか未来とか希望とか

あてどもない漠然とした不安とか

どこにも行けなかった体のことや

宇宙の始まりと終わりや

今もどこかで起こっている戦争のこと

そんなことばかりで溢れきって笑ったり泣いたりしていた

いつも大げさに喜んで悲しんでいたように感じるけれど

わたしは深呼吸をしていただけだった。

いつも世界を感じていた。光を浴びていた。

少しくらい、それを照明する光源は自分の中にあった。

それはまるでからっぽなしあわせ。

たとえば、「好きな気持ちだけで誰かと恋人になる」

それでよかったはずなのに

年を重ねていく中で、

「好きなだけで誰かと恋人同士になること」は「なくなった」。

些細なことでも感じたり悩んだり涙したり笑顔になるようになった。

大人になったのかしらと思うこともある。

だとすればもう、あの頃のしあわせは案外とおいところにあるのかもしれない。

 

わたしの敬愛する音楽の友 Iris Dement は「My  Life」の中で

私の人生はちっぽけで、誰も思い出すことのない9月のよう、と歌いながら

けれどわたしは、

母を喜ばせ

恋人に微笑みを与え

困っている友人を救うことができた

それだけのことかもしれないけれど

ほんの少しの間でも、人生が良くなったと云っていた。

 

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わたしもそんな風に生きていけたらいい

きみとみたすべての光をいつかみる夢の中で見たい

 

 

 

 

 

2月5日、F**K YOU

 

葉を揺するのが風だと知ったときから

花が向かっていくのが陽の光だと気付いたときから

誰も何も一人きりでは生きていないとわかった

上りかけの階段の途中でわたしに世界を教えてくれたのは

他の何でもない世界だった

 

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わたしの恋人は手を握って話を聴いてくれる

一緒にお風呂に入ったら背中をこしこしと洗ってくれる

細い体に長いドレッドヘアーとたっぷり蓄えた髭

手首から肘にかけて入っている森のタトゥー

わたしにないものをたくさんもっている人

自分のしたいことを哲学や信念をもってやっている人を

どうしてもわたしは好きになってしまう。

何とも言えない親密さを覚えてしまう。

わたしは恋人の謙虚なところも好いている。

 

きみの生活を知りたいの

わたしの生き様を見てて欲しいの

欲を言えば生きるのに積極的でないわたしの

手をとって共に生きていってほしい

 

わたしはきみに優しくしたい。

それはきみがわたしに優しいからなのだし。

わたしはきみの前でたまには強がりたい。

それはきみがカッコよく生きているから。

わたしはきみを守りたい。

それはきっときみが守ろうとしてくれるからだ。

 

’いつでも飛んでいくよ’

魔法の言葉

お守りのようにこころに留めている

 

きみが鳥なら本当にいいのに

わたしはかごなんかに閉じ込めたりしないから

自由に羽ばたいて

好きなように生きて

指をからめて世界を変えて

両手を広げてわたしをさらって

存在がわたしを抱きしめる

柔らかないのちでいい匂いのする獣

 

あきらめられきれなかった手の先にきみがいた

 

きみの呼吸が大気を揺らして最初に戻る

 

 

 

 

 

1月31日、ねぼう

 

東京では雪が降ったりとかしてるみたいですけれど

奈良は寒いだけでよく晴れているなあ。

冬のどんよりさがもう、残り少ないように感じるこの頃です。

思い出の話をしようと思うけれど、

これを読んでいる人は、思い出の話、

もう飽きてしまっているのかもしれないと思いながらも、しちゃう。

 

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わたし、そもそも「思い出」が好きなのだ。

思い出は「起こった事実」とは違うから。

明らかにわたしが体験してきた事柄なのに断片的すぎて書けなかったことがあるとしましょう。

それを思い出そうとすればするほど「事実」と「想像力」は入り乱れて、乱気流の中に頭を突っ込み、ぐちゃんぐちゃんになる。それでもその想像力が働く温度でいろんなことが本当は起きていたのだと信じたい。大事なのは「起こった物事それ自体」ではなく、わたしがそこで見た風景、嬉しい、悲しい、そんなことだよねって思うのです。この話はこれだけです。特に考察があるわけじゃあないもんで。

 

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さて、

「話をするときは人の目を見ましょう」

そんなことを言われたこともあったっけかな、とか思いながら

ずっと好きで大切で、それでもいつかは別れてしまう人たちは

わたしがもじもじと、或いは決意めいた表情で何かを云い出すと

みんな揃って手を握ってくれたことを思い出す。

あの人も、この人も、ああ、あの子もって具合に。

だからわたしもそうするようにしてるんだ。

「ねえ、手を貸してみて」

 

このあいだ話した彼もそうだったな。

ああ、同じ文化を持つ人だって安心した。

手をとって話すと、とてもとても沢山のことが交換されるから、呼吸が整うから、

安心して言葉足らずを恥じることなく眉間にしわ寄せることなく穏やかに話せるから。

ありがとうに始まりありがとうに終わる、わたしにとっては話し慣れた、そんな話をした。

丁寧に丁寧に聞いてくれた。やっぱり出てくるのはありがとう、だ。

 

彼には2日したら会えるんです。

嬉しいんです。

今度は何話そうって。

何聴こうかなって。

そんなことで頭がいっぱいなんです。

 

 

 

 

 

 

 

1月27日、ファンタジア

世間をさぼって生きてきた。
報いはもちろん、ある。
ことばの要らぬ焦燥もある。
ようやく重い腰を上げて動かそうとした
体や頭はこんなにもか、と思うほどに
うまくいかなくていやになってしまう。

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バラバラの言葉が降ってくる。
それらを束ねるときの
点と点をつないで線にしていくとき
星座をつくることを、想う。
わたしは未だにそのように生きている。

飲み込めたこともある。
割り切れないことも、
取り返しのつかないこともある中で
光と陰がいつもわたしの側にある中で
それでもわたしはひとりでは生きていけないない世界の、光を信じたい。
うつくしい営みのひとつとしてその光だって忘れてゆくのだから、過ぎ去ってゆけるような涼しい風のようでありたい。