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5月20日、フューチャー

 

街を歩いている人たちの服がピンク、水色、黄色になって

やっと季節のゆるまりを知る。

 

草花。人の気配。愛する人

上がってきた写真は1枚1枚ですごくいいと言うよりは

36枚で1つの物語のようになっていて

わたしはわたしの写真のそういうところが好きだ。

 

生活の音が痛くしみた季節を思い出す

ひとりの部屋にはわたしの分の生活しかない

お母さんの作ったご飯を食べたくない、と泣きながら食べることも

無理やりお風呂に入らなきゃいけないことも

目に見えるように、耳に聞こえるように心配されることもない。

それでもさみしくてわたしには大きすぎるベッドにパソコンや本を持ち込んで

ようやく安堵の涙を流す。

 

ひとりの体を抱きしめるにはひとりの方がいいこともある。

ただ空を見上げるのには、ほめたたえるのにはひとりの方がいい。

 

だからこそ、恋人に感謝をしている。

わたしよりも少しばかり大きくてあたたかいその体で

ちゃんと愛してくれてありがとうと思う。

 

生きるときに死ぬことを愛していたい。

死ぬときに生きたことを愛していたい。

わたしだけの人生の中で忘れたくない感覚。

 

苦しみや悲しみがなくては生きていけないのかと問われたらyesだ。

影が濃い分だけ光の強さを知る。

それは本当のことだと今もわたしは信じているから。

 

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わたしはわたしの足跡を消して起こったことを綺麗事にしようなんて思わない。

どうせ、憂鬱なことですら、あたらしい希望の中にうずもれてゆくのだから。

 

 

 

5月7日、日常

 

 

ひさしぶりに体やこころの調子がわるい。

家中の電気が夜中につかなくなる夢を見たり

死んだ恋人の(あの、いつもの)夢を見たりした。

朝から夕方までどっぷりと眠ってしまった。

横たわっていると、知らぬ間にずうん、と眠りに落ちる。

仮死したように。深海を泳ぐように。

せめてクジラのこころで泳げたなら。

 

体はぐぐんと重たいのに走りたい。

はじめて間もない夜中のランニングは

結局、まだ1度きり。

数年ぶりに動かした体はきゃあと悲鳴をあげて

筋肉痛が治ったら雨が降ってきた。

 

昔は雨が好きだった。

好きな人がくれた雨の音を自宅でサンプリングしたCDも好きだった。

サザンオールスターズの「思い出はいつの日も雨」というフレーズも好きだった。

 

本当に目が悪い。

眼鏡を外したら雨の日の車の中から見る世界のように

光が拡散して遠近感が少しなくなる。

そんな風に。

なにを見ても聴いても、思い出せるようにずいぶんとがんばっていたのに

思い出の残像はぼやけ、滲み、夢のあわいのようになってしまった。

いくら自分のさいわいを許せるようになってきたとはいえ

思い出の中で生きてきたその未練はまだまだわたしを離してはくれない。

仄暗いグレーの今と過去の往復をする日々。

持久力もないから、ときおり息が切れるだけだ。

こころも体もわたしのことをだましてはくれない。

 

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人生は頭で考えることではなく

生きてみることではないだろうか

知ることではなく

歩いてみることではないだろうか

 

そんなことを言っている人がいた。

 

生きるとは人生とは何かを問うことではなく

人生からの問いに応えることだと

「夜と霧」の作者は言っていた。

 

あしたもこのこころと体で生きていく。

 

 

 

 

5月1日、ベッドサイドミュージック

 

 

メキシコで見つけた木彫りのマリアを

ベッドの上に飾っている。

もう、ずっとだ。

いつかはtattooにして

胸に入れたいと買ったときに思った。

 

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マリアはおかあさんの象徴だと思っている。


おかあさんのあたたかさ

おかあさんのきびしさ

おかあさんのつよさ

おかあさんのなみだ

おかあさんがすきだという気持ち


マリアの十字架と出会った頃にぶちあたった壁。

今まで心が壊れるほどの耐えきれなさと、

怒りと許せない気持ちと闘ってきた。

今も闘っているのかもしれない。

これからも闘ってゆくのかもしれない。

そんなときに、枕元のマリアを見上げて深呼吸する。

 

「あらゆるものごとをひとをゆるせますように」

 

それはわたしの祈りであり、

生きていく中で心に留めておきたい願いだ。

そしてそれはそうなることが目標なのではなく、

生きていく姿勢そのものだと思っている。

そうありたいと願う姿勢が、それ自体になる。

わずか800円の木彫りのおかあさんに

わたしは守られている。

だからわたしも強くしなやかに生きて、誰かを守りたい。


愛したら愛したら愛したら

愛される愛される愛される


そんな覚悟をもって

それでもわたしは愛されるのではなく

愛して生きていきたい。

わたしだけの人生を生きていくつもりだ。

 

 

 

 

4月16日、気持ちいい風が吹いたんです

 

 

いつの間にか

ピンクとも白とも云えぬあの花の降りしきるまぼろしの季節を通り越していた

みどりは新しく、いつも懐かしく、

こんな風に重ねていく日々のあたたかさを伝える術をわたしは持ち合わせていない。

 

“わすれたい”と思ったことのない人生を、願ったことのない時間をさいわいに思います。

どうかわたしやあなたの走馬灯がいつまでも長く永く続きますよう

いつか、両手に抱きかかえて持っていけるのはそれだけだからね。

 

名指すことのできない祈りの在り処をあなただけは知っていて

その声に言葉なく出会うのだとしたら

わたしは、そっとその歌に耳をそばだてていたい。

からだを傾けていたい。

その歌でまたひとつそれらがこの世界の実在になっていく。

そうやってこの世界にあるあらゆるものを造りなおして

どうか、わたしに教えてほしい。

あなたのうたう歌がやさしければやさしいほど泣きたくなったのは

鳥かごの窓をそっと開けられたような

もう自由になっていいんだ、と

しあわせになっていいんだ、と

言われたような気がしたからかもしれない。

 

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あなたの名前を呼ぶみたいに

春の名を呼んでみたい。

 

あなたがわたしに与えた言葉が

ついに思い出になる前に

この春の名を呼んでみたい。

 

 

 

 

4月1日、蝶々結び

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気持ちがよければそれでいいんだよ

 

それが大切な君の言葉だった

 

もつれた色彩があんまりきれいなのに

それを言葉にすることがもう難しい

ただ、薄いピンクに覆われたこの町が好きだ。

 

恋人がいないとうまく眠れない

外から帰ったら手洗いうがいをすること

空を見上げること

種から育てていたサボテンに水をやること

それらはいつの間にか君にもらった。

近道をするつもりではなくて

かといって遠回りをするつもりもなくて

誰に何を言われたってわたしは君の味方だ

もう、きっと、ずっと

ついて出た言葉は「一緒に暮らそう」だった。

 

誰とも暮らしたくなんてなかった。

結婚するならまだしも、と冷めていた。

家族とも暮らせなくなった。

自分には関係のないことだと思っていた。

ひとりでいることがわたしをわたし足らしめるのだと思っていた。

なのに、恋人はそんなところをするりと抜けだして

わたしは彼のそばにいたいと願っている。

もう、きっと、ずっと。

 

恋人のお父さんからは

一緒に暮らすということは、つまりそういうことだから覚悟しなさいと言われた。

覚悟。

考える。

頭に手を当ててみる。

こころに聞いてみる。

わたしにとっては彼と過ごす何気ない時間の中にだって、常に覚悟があった。

「一緒に生きていきたい」

はじめてそう告げた時のことをわたしは一生忘れないと思う。

わたしをこんな風にさらってくれてありがとうと涙が出たから。

今、彼と生きることは、自分の人生を歩むことと同義なような気がしている。

あなたまかせにまわってゆく世界が、今は、ただ眩しい。

ただ眩しいだけではなくてその光のプールの中にそっと足を差し入れて

水遊びをしてもいいんだ、という感覚。うまく言えやしない。

 

それでも、変わらない。

もう、きっと、ずっと。

しあわせのこわさやうしろめたさで身を縮こめていた。

それが自分勝手なことだと教えてくれた彼がしあわせの象徴。

守るから。しあわせにするから。

そんなこと自分でなるものだと思っていたのに

ことん、と彼の肩にもたれかかっているわたしがいる。

魔法みたいだなって思いながらそこに

わたしなりの覚悟がぎゅう、と詰まっていること

恋人は知っているのかな、どうなのかな。

 

happyでlaugh laughな1年にしよう、と約束した。

やっとトンネルを抜けた気が、今している。

これからも、きっと、ずっと、だ。