tayutauao

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6月11日、RE: the story

 

 

 

物語が必要だ

両手で持っていられるだけの

つまらなくて

とびっきりにバカバカしい

けれど、それはきっとゾウの目ほど優しいはず

きっと、あなたの目ほど本当のはず

 

 

left right left
 
right left right

 

 

そうして「生きる」と手を繋ぐ

そうして「死ぬ」を抱きしめる 

 

 

 

(2013/04/25) 

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

RE:

授業で柳田國男の『遠野物語』、第99話を読んだ。

大津波で妻と子を亡くした男がいた。

1年後に会った妻は同じく津波で死んだ昔の恋人と夫婦になっていた。

もちろん2人はもう死んでいる。

子供は可愛くないのかと問うけれど、妻は涙を流してその男とふわ、と消えてしまう。

その男の人はそれからずっと長い間病気になってしまったという話。

砂を噛むみたいな気持ちの悪さのある

なんというか、後味の悪い話だった。

 

添付の資料は1年前の3月11日付けの新聞。

この第99話で妻を亡くした男の人の子孫にあたる男性が載っていた。

この男性も津波で母親を亡くされたそうだった。

「ただの教訓じゃなく」、「1人1人が血の通った物語を語り継ぐことでしか次世代の悲しみはなくせない。」

 

「この物語を遺された人々はここからどう希望を見出せばいいのだろうか。」

噛み砕けないんです、どう解釈したらいいのか分からないんです、と先生は言った。

 

わたしは今学期のはじめに先生が言っていたことを思い出していた。

人は苦しい想いをした時、納得するために理由を求めます。

それは非科学的でも、非因果的でもかまわないのですが・・・。

「わたしたちが生きていくには、『物語』が必要なのです。」

 

悲しいことを受け入れて生きてくためには「物語」が必要だとして。

そこには希望が添えられていることが相応しいとして。

わたしたちは、ずうっとそうやって静かに涙を飲んできたのだとして。

 

ああ、そうか。

第99話には「希望」がない。

 

その生々しさを甘いと舐める人はきっといない、けれど。

生きてくためには「物語」が必要なのだ、としても。

悲しい記憶が悲しいままじゃいけないわけがない。

苦しい記憶が教訓にならなきゃいけないわけがない。

「血の通った物語」はきっと、痛い。

切ったら血が出るし、叩いたら痣ができるかもしれない。

悲しみを悲しいまま守ることの方が、きっと幾らもむつかしい。

 

「死ぬってこういうことかなあと思う。」

先生のいう噛み砕けなさは、生きることや死ぬことの割り切れなさそのもののような気がした。

 

大きな震災があった。津波もあった。原発のこともあった。2年経った。

みんな苦しい想いをしたのだと思うとお腹の底が重くなる。

生きてる人も、死んでしまった人も。

「生き残ってしまった」と世界の端っこに繋がれている人もいるかもしれない。

みんなは1つの単位のことではない。1人、1人のこと。

1人だって顔のない1人じゃない。頭もクラクラとしてくる。

 

悲しみは自分だけじゃなく 目の前のあなただけじゃなく

今だけじゃなく、昔だけでもなく

おおきいとか、ちいさいとかじゃなく

たしかにあったはずなのに、今もあるのに。

それは一体どこへ行ったんだ?

 

「いったいどこへいくんだ?」