tayutauao

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7月17日、夜

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写真というのは結果だけど。

ファインダーをのぞいて

あなたを見るということは

あなたから目を離さないということなのだと思う。

あなたを見ていたいということ。

あなたの生をたしかめることなのだと思う。

あなたの生きることを、死ぬことを、

わたしが預かるということなのだとおもうの。

 

 

6年前の話をしましょう。

 

 

わたしは死んだら自分で話すこともままならなくなるでしょう。

わたしが死んだら、そのことを確定するのはわたしではない。

わたしではない誰かの言葉によってわたしの死は確定する。

そのとき、きっとわたしは生まれてはじめて死ぬことになる。

 

だからまわりにいる人たちを大切だとおもいます。

友だちを、家族を、恋人を大切だとおもいます。

彼らがわたしの人生を完成させる人たちだからです。

彼らがわたしの死を完成させる人たちだからです。

彼らの言葉によってわたしは死ぬ。

世界とのつながりの多い人ほど、

そのつながりの深い人ほど 死は死へと成りえるのだとおもう。

 

死と生は同じものだ。

わたしの死を確定する人たちは

同時にわたしの生を知る人たちだからです。

 

 

高校を卒業したとき、リンコがわたし手紙を書いてくれた。

 

 

きみにわたしの高校時代を預けます。

何も一生会えないわけではないけれど

それでも君にわたしの3年間を託します。

元気に何百年も生きてください。

わたしの3年間を、生を死をよろしくお願いします。

高校生のとまべちみおはわたしが留めておきますから、

安心して新しい夢を見てください、と。

 

 

わたしはこのことを今よりなんとも考えていなかった。

けれど、大切な人たちの終わらぬいのちを

終わらぬ日々をあの頃よりも切実に、わたしは願うようになった。

この言葉によって生かされて、自分の生に責任が生まれて、

同じようにわたしの高校時代を預かってくれた

彼女の終わらぬいのちを願うようになった。切実に。

ずっと生きててほしい、これは愛だ。

言葉でも気持ちでも音でもない。祈りです。

 

 

わたしは別にうまい写真が撮りたいのではない

誰が見てもきれいなものが撮りたいのではない

芸術家になりたいわけではない

世界を切り取りたいわけでも収めたいわけでもない

 

ファインダーをのぞくのが好きだ。

ファインダーをのぞくことの面白さに

その熱に浮かされている。

目だけで見てる世界より、うん、と「見る」という感覚に

近づいていけるのだと思う。

ファインダーをのぞいてだれかを見るのはとってもたのしい。

普段自分の目でみてるよりも 見たいものだけを見られる

世の中の雑多なものごとをその瞬間だけはすべて捨て去って

たいせつなきみだけ見られる

祈ることもできる

信じることもできる

愛することもできる

なにも邪魔できない だから夢中になってる。

 

そしてきれいだなあとおもう。

自然な表情も好き。わたしだけに向けてくれる表情もすき。

そういったどれもが、世界にあるどんなものにも勝てないと思う。

(なんでもない1枚の写真に果てしなく心を動かされることだってある。)

 

どんなにすごい研究も、

世界中がぎょっとするような発明もとてもかなわない。

どんなにすぐれた物語も、心にしみてくる音楽も、

つくしい思想も、あまったるく素敵な言葉もとてもかなわない。

とうとくて いとおしくて、まっとうで なにものにも代え難い。

それがどれだけの奇跡なのかとおもうと心がきゅーっとなる。

 

わたしのそういう気持ちを許してくれるものが写真。

そういうふうに見ててもいい 感じてもいい

たいせつなきみの笑ったり泣いたりする顔や表情や

いちいち揺れるこころを奇跡なのだと思ってもいい

わたしにとって写真はそういうことなのだとおもう。

 

「ことばと写真の展示」がしたい。

きっとわたしは変わるから

folkloreの歌詞みたく あとすこしで何かが変わる

 

きっとわたしだけが

何かが変わる予感を知っている

歌の中で何かを変えようとしているのは

そんな予感をつれてきたのは強い台風だから

「わたし展」は台風のようなものであるといいのかもしれない。

何事もなかったかのように過ぎ去っていく。

ちょっと乱暴な台風のようなものであるといいのかもしれない。

そう、過ぎ去っていくものであるといいかもしれない。

 

なんでもないことでいろんなことがガラリと変わってゆく

いいこともわるいことも連れ去られてく

日常のもっている力は驚くほどにつよい

 

わたしは風だ。

「去り際のタイミングを掴み損ね」たまま

なつかしい場所でいつまでも揺れているだけの。

わたしは風なのだとおもう。

あたらしい夢を見ることに憧れたまま

青の時代に手をつないだ人たちの温度を魔法瓶にいれたまま

何かが変わってく予感に鈍感なまま

 

懲りずにあこがれた今日をとことこ歩いているわたしは

きみのやさしい目尻のしわで100年先まで眠りたい

きみの肩から先、海の向こうの知らない世界を見たい 

 

気付いたら時間だけが過ぎて

「遠くで君の声が」するところまで歩いていた。

わたしは、変わることはこわいことだと思っていた。

きみにそういった。

 

それでも やっといま、

なにかがかわってゆくようなそんな気がする。

過ぎ去っていける気がする。

あとすこしで あとすこしで

 

(ここから、もっとよくなるように)

(ここからなにかが、もっともっとよくなるように)

 

 

「そろそろ、行かなきゃ」

 

おなじようにタイミングを掴み損ねてる

だれかの背中をそっと撫でられるような

そんな展示になればいいなと思う。

顔をあげるのはその人だけど

たとえばそこから、

一歩を踏み出すのもその人だけど

わたしがなにかをするのではなくて

導くのではなくて、きっかけでもなくて

「あ、いま風吹いたよね。それもいい風が。」

そんな風にわたしがなれればいいなと思う。

 

folkloreで1番すきなのは

「ららら」という歌詞。

1番伝えたいことはいつも言葉にならない。

 

( だから、あの時

 「らららの音にみんなの想いをのせて」

 といった郁子ちゃんや

 いとおしい知らない誰かの歌声に

 ららら、と歌うわたしに、ぼろぼろと涙がでた。 )

 

言葉にならないことは

言葉にしなくてもいい

らららに想いをのせて

それはきっとあなたに届くもの。