tayutauao

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12月29日、同じ手

 

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「泣いてもいいよ、笑わないから」

さっきぐっさりと刺さった一言のせいで

わたし、きみの話を聴いているようで

聴いていなかったかもしれなかった。

取り戻せないもの、って言葉がそれだった。

失うのがこわくって こわくって こわくって

取り戻せないって本当の本当にわかってしまったら

そんなの、自分がどうなるのかわからないじゃないか。

 

もしも会えたなら聞きたいことがたくさんある

 

変わらないものなんてないと巷ではいうけれど

彼と過ごした時間は永遠だ

 

恋人が死んでしまって悲しい

恋人に会いたい

恋人のこと許せないよ、まだ怒ってるの

そんなことをこぼしながら静かに静かに熱く泣いていた。

 

まだまだ春が遠い冬の日の空の下

ポストに入っていた友人からの手紙の最後は、

「いま、わたしは幸せです」と括られていた。

 

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なんのために生きているんだろ、と思うことがあるんだ。

多かれ少なかれ、誰もが思うことだとも思う。

守るべきものや人のため

新しいものに出会うため

しあわせになるため

破ることのできない約束のため

生きるしかないじゃないか、とか

そもそもそんなものに意味なんてないとか

きっといろんなことをいろんな人が言う。

 

わたしは「しあわせになるため」に生きていると思っていた。

ささやかでもいい、取るに足らないようなことでもいい

それでもああ今日はご飯が美味しいな、とか

ぐっすり眠れてからだが喜んでいるな、とか

好きな人たちと過ごす時間は最高だな、とか

花が咲いていてとってもきれいだ、とか

つまらなくさえ思える毎日の繰り返しだって

それはきっとしあわせなことで、

それらに囲まれて生きることは

「生きることそのもの」の目的になるのだと信じていた。

 

けれど現実は違っていた。

厳密に言えば、それを信じられる時もあるけれど

そうじゃない時もある、といった感じだろうか。

わたしにもしあわせな時間があった。

 

優しい恋人がいて

家族と食べるごはんは温かかくて

たくさん仕事を任せられて

それをちゃきちゃきとこなして

稼いだお金で写真を撮って

友達と旅行に行ったり

笑いの絶えないそんな日々もあった。

羨ましいほどの幸いに包まれていても

わたしは死んでしまいたかった。

しあわせであればあるほどその影は濃く落ちていた。

しあわせがこわかった。うしろめたかった。

そんなこと、誰にも言えなかった。

 

どこまでも続いていきそうな

ゆるやかで たおやかな

現実みたいな生活の夢の中で

うしろめたさばかりなのは なぜ?

 

でも、わかったこともある

 

悩んでもそればっかりじゃない

許せなくても優しくありたい

苦しくったって笑っていたい

悲しくって泣くのは当たり前で

それもひっくるめて笑っていたい

教えてくれたのは18歳のわたしでした。

ずっとそれを知っていたのにね、ありがとう18歳のわたし。

なーんにも変わってなくて励まされたよ。

 

見せてないものも見てくれる人だっている

見せてないのに気づいてくれることもある

 

苦しい悲しいを背負って生きてゆくのかもしれないけれど

それよりもきっともっと大きな強いちからに跳ねっ返されて

わたしはちゃんと世界を好きなままで居られるはずだ、と

今は信じている。信じていけると予感が包む。

 

わたしはお姫様ではないから

しあわせな寓話を生きることはできないかもしれないけれど

くるしいの中でしあわせを知ってる物語を生きてゆくことはできる。

そんな人生がやっぱり好きです。 

 

今年もお世話になりました。

まだ更新するかもしれないけれど

まとめて言いたかったのはこのへんなので

これを2017年の締めくくりにしたいと思います。

 

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いつも同じことばかりを言う拙い文章を

読んでわたしを支えてくれているあなたの手にゆるされています。

あなたは優しいね、と言われることがあるけれど

わたしが優しいのならそれはきっとあなたのおかげです。

それではよいお年を。