tayutauao

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2月27日、おやすみなさい

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am10:46

 

先週くらいから瑠理さんの調子が悪そう。

わたしは知らないけれど、なにかあったのだと思う。

ヌカガさんに涙のセルフポートレートを送っていた。

「自分の知らない時間のその人を知るのは、ほとんど犯罪みたいなものだ」と

わたしは思ったことがある。(SNSにあがってる恋人の昔の日記を読んだときだった。)

それでも、くるしそうで、みんなとのやり取りを勝手にみて

わたしまで涙がでるからいやんなっちゃうなあ、もう。という感じ。

おもわず筆を執ったけれど、出せない手紙になるだろうな、きっと。

 

「速度」が苦手だ。

好きとか嫌いではなくて、苦手。

iPhonetwitterも便利で、わたしはもうこれがないと生きていかれないとおもう。

次の瞬間には気持ちが、言葉が、相手に届く発明を、速度を、持っているのに

瑠理さんに対して手紙を選んだのはわたしのエゴだとおもう。

文字には温度があるし、指先に、筆圧に、込められると信じているから。

 

瞬発力ばかり鍛えて蓄えたわたしたちにとって

メールもtwitterも心地いいもので、あれば助かるのだけれど。

ほんとうに大切なときでさえ速さに拠ってしまうことに

わたしは違和感を感じているのだろうな。

瞬発的に放たれた言葉、反射的に放った言葉、

うまくのみこめなくても進んでいってしまう。

 

どうか。どうか。

その場で返ってきたものが自分の世界のすべてだと。

その場でのみ認める、認めない、好き、嫌い、の交換が行われるとおもわないで欲しいなあ。

その場でなにもいわないけれど、いえないけれど、わたしは瑠理さんのことがいとおしい。

 

「みんな元気なわたしが好きって言うじゃない。

 元気ないとリムるし、無視するじゃない。

 元気ないわたしに価値がないなら、もうわたし生きてる価値なんて、ないじゃない。」

 

瑠理さんはそう放っていたけれど。

 

「みんな」ってどんな人たちですか?

それってわたしも、あの子も、「みんな」なのでしょうか?

「みんな」が好きで大切ですべてなのかなあ?

「みんな」を束ねてしまわないで、

手の届く範囲にいる「みんな」は瑠理さんの云う「みんな」ではないよ。

 

 

あのね、わたしはね、瑠理さん。

わたしはすこやかにわらってたり、たのしそうだったりする瑠理さんのことが好きだけれど

元気のない瑠理さんのことは、とてもいとおしいよ。

いとおしいんだよ。