tayutauao

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7月7日、she

 

 

高速道路を見下ろせる眺め良好な部屋は、いろんなものが抜けてかない部屋。

あーうーあああー、と唸ってしまう程には暑さも抜けない。

きつねも綿の抜けたぬいぐるみみたいにくたっとしてる。

今年になって初めて、クーラーをつけた。

きのうフィルターの掃除は終えていたから、快調に部屋を冷やしてくれてる。

ことしも頼むよ、と頭上を見上げる。

 

さっきまで部屋に写真を散らばせて眺めてた。

8月、大阪の住吉で3月に町田のSIGHT BOX Galleryのご好意でやらせていただいた

個展の巡回展をさせてもらうことになったのだけど、どうしようかしらと腕組みをしてる。

もう7月なんですけど。

 

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「たとえばぼくらなんて呼ぼうか。」

 

このタイトルは高校生の頃に書いた「引力」という

幼くてささやかなお話の最後のフレーズで、わたしには

その頃から何か、生きることにかかわるテーマのようなものなのです。たぶん。

 

なんて呼ぼうか

なんて呼べるのか

なんて呼びたいのか

 

名前をつけるということは

魔法をかけるようだなあと思う。いつも。

魔法とは、「普通とは異なる因果関係のこと」

と言ったのはボルヘスだったと思うのだけどそれってわかる。

結ぶことなんだ、わたしにとって。

結んだら、そこからなんだ。きっと。

だから、きっと「たとえばぼくら、なんて呼ぼうか。」は

魔法みたいにふわりとした地に足のつかない響きをしているけれど、

わたしには踵で打ち鳴らす振動のような音のようなものだ。

わたしの真ん中で休まず鼓動する心臓が打つ音のようなものだ。

 

 

「ぼくら、たしかなことなんてなにひとつない惑星に生まれた。」

 ーそうそう、なんにもないとこに生まれたんだったね。ー

 

 

この歳になってようやく気づいたことがあって

身を持って知ったというのが正しいかな。

とにかくそれは「ぼく」じゃなく「ぼくら」の方がずっと孤独ということ。

だけど、高校生のわたしはそのことを知ってたんじゃないかなあとも思う。

なんでかっていうと、物語の中の「ぼくら」は、

自分も、相手も、2人でいることも、孤独だって知っているように見えるから。

 

「今しかないんだ」と思う。この頃。

話が変わる。ころころと。

誰だってそうなのかもしれないけれど、

大学4年生というこの時期が特別な季節なのかもしれないけど、

来年の今頃、自分が何をしてるかなんてさっぱりわからないし、

予感もないし、日々に伏線が張られてるとも到底思えない。

ただ、わかることもある。

今日があって、きっと目の前にあるものを手繰って明日を生きて、

その積み重ねの先に「来年の今頃のわたし」がいるということ。

けれど、その明日はいつまでもあるわけではない。

ね、かみさま。

 

自分も含めて、おまえも、世界も、見落としてるよ。

いっつも見落としてんの。今しかないの。

きのうメールでやり取りをしていた友人が言っていた。

「お前はそのことに気づくべき。」

 

気付く時に、強く感じるのはその裏のことで、

「世界には気付いた分だけ、気付いてないことがある」ってのが、ほぼ同時にわかる。

そのことを豊かだと感じたり、途方もないと感じたりするけれど

待ったは効かない。なので、気付いたら向き合いたい。抱えていきたい。

 

くじらを見たいな。見たいというよりは会いたい。

明日も暑いかな、考えただけでグッタリだね。

おやすみなさい。