12月29日、I am sorry
むかし、遠藤周作の『悲しみの歌』を読んだ。
ラスト3分の1くらいはお風呂の中でへろへろになりながら。
新宿を舞台に本当にたくさんの人が出てきたけれど
一貫して何かが晴れることのない
どんよりとした鈍色の低く重たい空のような数百ページだった。
たかが本なのに、どうしてこんな苦しい気持ちにならなければならないのか。
自分も物語の中の人たちと同じく何も出来ずにページを捲るしかない。
そしてほとんど手を休めることのないままにそれは続けられてゆく。
「もうやめて!」と思いながら。
胸がきゅうと締め付けられながら。
自分の瑣末な正しさを盾にしながら。
それでもページを繰ってゆく。
「生きていく」ってこういう部分があると思った。
どれだけ引き裂かれても続けてゆくしかない。
誰のことも救えず、自分の無力さを噛みしめる。
報われない事のほうが圧倒的に多く、誰も誰かを裁くことなんて出来ない。
自分の正しさをかざしながら、ふいに誰かを殺してしまう。
悪気がなくても傷つけてしまう。
時には守りたいものにさえ、いつの間にかツメをたて
ほんの一欠片の思慮のなさが牙をむく。
+
ガストンという男がイエス・キリストとして配されていたけれど
彼もまたとても無力で可哀想だった。彼が誰よりもそのことを感じていた。
神は無力さを感じているのだろうか?
地上の暮らしのあたたかみも分からぬ遠い空のどこかにいる神は
ガストンのように誰かの悲しみやつらさや涙を
通り過ぎることができずに涙を流すというのだろうか?
彼が神かは分からないけれど、彼が愛を知っている/愛をしていることは分かる。
おそらく、愛をするということは無力さに添って、
それでも誰かのしあわせがみたいということだし
周りから見ると少しおもしろおかしく見えることもあるのだということ。
ガストンがさまざまな場面で「かわいそう」というのは印象的だった。
みんなみんなかわいそうなのだ、彼には。心から気の毒なのだ。
そこかしこに溢れる悲しみに対し彼は
「何をすることもできず」「しくじり」「ヘマをやり」「大切な時間に遅れる」。
やるせないけれど、彼は誰かを救うことなんて出来ずに
それでもその誰かがほんの瞬きの間でも笑ってくれたり、挨拶をしてくれる
その瞬間があったから「生きることはツラくない」と、ここまで生きてきたと言い切る。
生きることも愛することも苦しく、どうにも身を切られるようなものだけれど
そういうひとつひとつに救われる瞬間があるのだと思ったらわたしも救われた。
だから自分のことを愛してくれたり許してくれる人間を悲しませてはいけないのだろうな。
+
先週、薬を200錠ほど大量服薬して1週間弱間昏睡した。
母は疲れきり、わたしは門限が22時になった。
わたしは母をずいぶんと悲しませてしまった。
崩壊していく家庭、破綻していく生活に
「もう無理なのかなあ」とこぼしたひとりの女性に
わたしはこの本のことを思い出した。
わたしは愛されることを知っている。
つきっきりで点滴をし、失禁するわたしのおむつを替えてくれた彼女のことを想う。
身を削って側にいてくれた彼女を、わたしは救いたいと思った。
だからもうこんなバカなことはやめようと思った。