12 月31日、なんでもないや
2016年にも年の暮れがやってきました。
わたしにとってこの1年は比較的穏やかに過ごせたのではないかと思います。
何より年末感がないことでそう思うのでしょうか。
暮れたり、明けたり、と思うけれど本当はただただ巡っているだけで
この冬を越えたらきっと春が来て、春が来たらわたしきっと
「冬が恋しい」と思うんだけれど、
それってもう次にやってくる冬に向けて走り出しているわけで。
その間にちょっと泣いたり、たくさん笑ったり、愛おしくなったり、突き放したり。
きっと日常が続いていくのだと思うとうんざりするような、楽しみなような。
そして、2年ぶりに社会に触れて「働く」、
ということがギリギリになってかないました。
(休みがちで迷惑をかけてばかりいたけれど)
日々はゆらりと移ろって2年前より1年前、1年前より今、と
着実にいい方へ、いい方へと向かっているような気がしています。
わたしは巡るきせつを横目に明るい方へと舟を漕いでいる途中です。
*
さて今年1番響いたことばは
「みお、話してほしい」という
恋人のことばだったような気がします。
ちゃんと伝えられないことがもどかしく
読めて書ける、ということでどこまででも
いけるような気になっていました。
わたしは書くことが好きです
けれど話すことは苦手です
同じようで同じではない言葉とことば。
4年前、このようなことを言いました。
変わらない部分もあるのだと
安心したりがっかりしたりしています。
*
「なにかつたえたい」と思います。
たいせつでだいすきで仕方のない人たちに。
それでもうまくいえないことがある。
かなしいこともかなしいと、 うまくいえない
うれしいこともうれしいと、 うまくいえない
ほんとうのことをほんとうはね、いつもいいたい
それがわたしのよわさなのだろうな
それがわたしのかなしみなのだろうな
それがわたしのたたかいなのだろうな
*
文字を書くとき、はじめから収まりのいい言葉など、ただの一つもなく
それでも、飛び出した言葉にならぬ言葉のようなものは確かな意思を持って
それはほとんど、発語をしたことのない赤ちゃんのような口元をしています。
言葉はちゃんと収まるべきところを知っているように思えるのです。
たとえ時間がかかったとしても。
けれども、話そうとするとき、体とことばは確かに距離を持って
それぞれに時差ができ、頭の中で氾濫を起こす。
そのうち涙だけがポロポロと流れて
家族、友達、病む人や恋しい人にさえ、やさしいことばをかけられない。
思ってることの半分も言えず、行動に移せない。
そうすると口元は情けなくもごもごと空気をこねることになる。
そう、「書くこと」でどこまでも行けると自由の羽を得た鳥は
「話すこと」で水の中で溺れる魚となる。
同じ「伝える」ということなのに、
身体性こそ違えど同じ道具を使うのに、
わたしにはそのギャップを埋めることがひどく遠い道のりに思える。
*
伝えたいことも伝えられないまま夜に溶けてゆく
真っ黒な服を着た私の輪郭
なのにかな、だからかな、
本当に大切なことの輪郭がきゅうっと浮かび上がってくることがある
「今のあなたにとって大切なことってなあに?」
そんな問いかけが聴こえてくる。
好きな人たちの写真ばかりが増えていく
なんてことのない携帯写真とかインスタントフィルム
あるのは誰かや自分の笑った顔。
こうやって自分のために文章を書くというよりかは
誰かに手紙を書いてる時間が増えた。
それはもう、たくさんの愛を込めて。
「表現すること」を諦めるのはこわいと思っていた
まだ、少しだけこわいと思っているけれど
それはそれで、とびきりロマンチックでドラマチックな毎日が
わたしを待っていることに気付けなかった。
いつもどこか寂しげだったわたしへ
大切なもの両手に抱えていっぱいいっぱいなわたしへ
どんな自分も許してあげよう
その時その時で大切なものは変わるから
今を生きて、新しい空気を思い切り吸い込んだら、
また生まれるものもあるかもしれないね
*
というわけで今年もお世話になりました
みんなにもわたしにも新しい年がめぐってきます。
楽しいことをしましょう
たくさん笑いましょう
あなたに素敵な1年が来ることを願いつつ
2016年12月31日 とまべちみお