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12月23日、死がふたりをわかつまで

 

「生きることや死ぬことにそんなにこだわるのが僕にはわからないな」

 

窓からのぞく空が白い

それは干しっぱなしのシーツや

洗濯用のハンガーと同じような色をしていて

青が群がっていた日のことなんて忘れてしまいそうだ

 

これは書いてしまうと本当になってしまいそうで

言葉にしてしまうとそれだけのものになってしまいそうで

書きたくないし、嫌だし、それっぽっちの話ではないんだけど

わたしには今も拭えない気持ちが確かにある。

許したい気持ちはずっとあるのに、許せないでいる。

怒っていて、悲しくて、寂しくて、嫌いで、好きで、愛している。

人と同じ生き方なんてまっぴら!と尖っていたわたしが

人並みかもしれないつつがない人生の柔らかさを受け入れようとしたことも

愛されたから愛することを知れたんだなって後になってから気づいたことも

死にたくなるほどひとりじゃ生きていけないと思ったことも、

殺してやりたくなるほど誰かを強く想うことも。

全部全部教えてくれた人が、確かにいたのに。

もう、夢みたい。

 

「こだわり」なんて格好のいいものなんかじゃなくて

「とらわれている」だけなんだけどなあ、と思う。

崖の淵をそろそろと歩いているような人生の只中で

踏み外せば途端に死んでしまいそうな生活の只中で

呪いをかけられたと思っていたけどかけたのは私だった

あなたと私が一緒にいたことを今はもういないあなたの分まで

覚えていられるのが私だけなら、私は喜んでその呪いにかかっていようと思う

 

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「あなたは何も悪くないよ」と夢枕に立つあなたにも言いたい

あなただって何も悪くなんてなかったんだ。

 

 

 

 

 

12月22日、Pinky

 

何をしたら幸せになれるのか

あいかわらずわからなかったから

ばらの花がぶっきらぼうに突っ込まれた花瓶の水を替えた

 

今は明け方なのだけど

まだ太陽は昇らなさそうだ

冬だからかな。冬だからだろうな。

ぼんやりと過ごす4時半の部屋に

友達の寝息が電話越しに響いている。

「おやすみ」

そう言ってから30秒もたたないうちに

すやすやと眠ってしまった彼女の健やかさに心から安心したから

電話を切れずにいる。

今、生きている人と一緒に時間を過ごすのは少しだけつらい。

でも、ひとりでは生きていけないから

誰かの生きてる音や匂いや存在を感じとることのできる

この空気をとてもとても愛おしく思っている。

 

つたない言葉の足取りがどこに行くのかわからなくても

そこが天国みたいなところじゃなくてもいいかなって思ってるんだ

 

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あなたもわたしも

こんなにもただ生きている日々が自分や誰かの生活をあたためられますように

 

わたしもあなたも

終わらない戦いの日々がきっと来る明るい未来につながりますように

 

 

 

 

 

 

 

 

11月4日、For Sure

夢の旅を続けていたら

ふと死んでいることに気づくことがある。

コポコポコポコポと砂が湧く海の底で漂っていたら

どこにも帰れなくなっていた。

 

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日々を残すために始めたはずのblogを3ヶ月放ったらかして

どこにいたのでしょうと思ったけれど、

blogに「なんだか気持ち悪い」というコメントをもらって

わたしはそのことを考えていたのかもしれない。

「なんだか気持ち悪い」というのは普通に考えればきっと誹謗中傷で、

きっとその言葉の通りにコメントをもらったのだろうから

額面通りに受け取ってちょっと落ち込んでみたり、

はたまた別にいいじゃないかと開き直ってみたりするのがいいのだろうと考えたりした。

けれど、いやな気持ちにならなかった。

気持ち悪いという感覚を、わたしは好ましく思っていると知る。

知らないものに出会った時に感じることのひとつだったりするからだろうな。

コメントをくださった方には気を悪くされたのならごめんなさい、と言いたい。

でもそれよりもありがとうございます、を言いたい。

言葉が放たれることによって立つ波のことを忘れたくはない。忘れてはいけない。

 

「わたし」がまだ「あたし」だった頃。

きっちりと折り目のついたスカートに紺色の靴下を履いて膝小僧を覗かせていた頃。

その時に行ったきりだったライブハウスに昨日、行ってきた。

大学生のとき友達になって一緒にカンボジアに行った男の子のバンドのライブだった。

「元気にしてた?」って会ったときはいつも一言目に同じ言葉をかけてくれる。

再会が嬉しかった。

4年ぶりに会った彼は変わっていないように見えたし、

わたしも変わっていないように見えたかもしれない。

日々が連なって、降り積もって、地続きの今日を迎えて、

彼にもわたしにも、いろんなことがあっただろうけれど

「懐かしいなあ」と過去を引き寄せるわけでもなく、また会えたことが嬉しかった。

きっとまた会えるといいなあと温かい気持ちで家に帰ってきた。

 

なんだか気持ちに整理がつかないなあとか思いながらも安心している。

いつも、うまく言えないことを残しておきたい。

なんどもなんども同じことを言いたい。

繰り返し繰り返し、言いたい。

それってどういう営みなんだろうって問うていたい。

言葉がカッコつけ始めたら、想いはひとりぼっちだぞって口に出してみた。

カッコつけたくなる時もあるんだけれど、今はいい。

リハビリをするみたいにわたしとお話しをしながら、キーボードを叩いている。

 

深呼吸をしてみたら

ほんのすこし勇気が欲しいなって思った。

背中を押してくれるのは最後には自分なのだろうけど

風を感じるようにしている。

体をゆだねてみたら自然と足が動きだす。

忘れそうになることの輪郭をそっとなぞって形を確かめる。

よし、と思う。

 

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こんなふうに大人になれないなら

今日のことはやっぱり覚えておかなくちゃ

おやすみなさい

 

 

 

 

 

 

8月11日、世界でいちばん美しい村

 

大きなものに触れているようで

懐かしく身近なものに触れていた

 

悲しみに触れているようで

さいわいに触れていた

 

とてもフラットな気持ちで観たのに

このなんとも言えない気持ちはどこから来るんだろう

「とにかく感じて欲しい」と言われていた数時間。

深刻なような、微笑ましいような、泣き出したくなるような、安心するような。

走り抜いたからだが受け取ったのは、生の営みの温かさ。

 

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8月の古都は暑い。

梵さんに会うのは大学卒業以来、4年ぶりのことだった。

早めに着いた映画館でおにぎりを食べていた。

私は少しだけ緊張していた。

そわそわとした心持ちで椅子に座っていると

スーツケースにリュック、バンダナ姿の男性が現れる。

 

石川梵さん、私の尊敬する写真家の1人である。

大学生の頃に町田にあるカフェギャラリーに出入りしていた私は

そこで梵さんに出会った。

いつもお昼ご飯を食べながら本の原稿を書いているおじさん。

たまに見かけると愛犬と散歩している近所のおじさん。

挨拶するといつもニコニコと朗らかで爽やかないい感じのするおじさん。

 

梵さんが撮っているのは、ドキュメンタリー写真だった。

それは写真をはじめて間もなかった私には、

距離のあるもの、ピンとこないものだったけれど

雑誌の連載を本屋でチェックしたり、

梵さんが開くファイルからのぞく景色をポカンと眺めたり、

「いい間」としか言いようのない心地の良いテンポで話すその話に耳を傾けている間、

この目の前でニコニコしているおじさんが

何かすごいエネルギーや力の渦に飛び込むことのできるタフさを持っている人なのだ

私の見たことないものあらゆるたくさんのものを見てきた人なのだ

私の歩いたことのない影や光の中を歩いてきた人なのだと肌で感じ取っていた。

私には梵さんを縁取っているその輪郭がわからなかった。

いつも畏怖にも似た気持ちを抱いていた。

 

会わない4年の間に、気付いたら梵さんは映画を撮っていた。

「世界でいちばん美しい村」と題されたその映画は

震災が起こったネパールの震源地近くの村を舞台にしたドキュメンタリー映画だった。

復興をテーマにしたよくある映画ではなかった。

全編通して梵さんの追い続けているものが、画面のどこをみてもふんだんに散りばめられていた。

それは祈りであったり、かみさまであったり、

それが繋いでいる人々の緩やかで、けれども強い絆のようなものであったりした。

祈りは声を聴くこと。そっと耳を澄ませることだ。

かみさまはあらゆるところに宿っている。

大きな森に、雨季に止むことなく降り続く雨に、

生贄にされた生き物たちに、死者を想い流す涙に、誰ともなく始まるその踊りに、

それに抗うことなく沿って生きようとしている人全ての目に。

 

私たちが忘れかけている景色を見たような気がした。

すっと呼吸を忘れてしまいそうな、そして取り戻すような感覚を何度か味わった。

画面の向こうにあったのは悲惨な状況下に置かれた異国の地ではなく、

私たちが忘れてはいけないもの、本当は大切にしたいもの、かけがえのないもの。

見たことのない風景ではなく、いつか見たことのある懐かしい風景だった。

 

 

すっかり打ちのめされた私は、もう写真をやめたいと思っていた。

絶望的なことに、同じくらい写真を撮りたいとも思っていた。

それは行動している人の作ったものに触れた時に感じるあの独特な感じだった。

「お前はこれからどうするんだ?」と突きつけられているような。

「お前にとって撮ること、書くこととはなんだ?」と言われているような。

そこにはもう認められたいだとか、上手なものが作りたいという

自分から発せられる願いはなかった。

「あなたに何ができるのか」

そのただ一つの問いが纏う深遠さ、息深さに潰されてしまいそうだった。

 

夜に全ての予定を終えた梵さんに会うことができた。

写真が撮りたい

「でもね、梵さん、私の写真はとても空っぽに思える。」

口から、そうこぼれた。

ケラケラと笑いながら、ほとんど泣き出しそうだった。

短い時間の中で色々なことを話した。

私が必要に駆られて写真をはじめたこと、続けてきたこと。

写真を撮る時にいつも頭の隅っこにあるもの。

梵さんにも問いかける。

梵さんは穏やかだった。この受け入れ方はこの人にしかできないと思った。

安心で、安心で、自分の言葉のおぼつかなさも気にならなかった。

 

自分に何ができるだろうと考えて、全て救おうとするとその人は潰れてしまう。

圧倒されて、打ちのめされて、差し伸べようとする手を引っ込めてしまう。

「だから、まずは一人のためになることを考えるんだよ」

戦場に行き、被災地に飛び、様々なコミュニティに飛び込んで生きてきた一人の人間の生の声だった。

初めて梵さんの輪郭に触れた気がした。

ああ、梵さんみたいに私にとっては壮大に思えるようなことをやってのけている人でも、

最小であり最大の単位はそこなのだと痛く感じた。

心が大きく震える音がした。

 

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今も私は、この手が何を叶えられるんだろうと問うたあの日を忘れていない。

いったい私がどれだけのことを見られるのだろうと泣いたあの日を忘れていない。

 

映画を観終わってからの数時間、

夏休みの土曜日で賑わう水族館の端っこに腰をかけて気が付いたらボロボロと泣いていた。

いろんな感情がごたごたと煮え繰り返っていた。

涼しい館内で、抱きすくめた自分の体はちっぽけで熱かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

8月4日、ROLLIE

 

 

目を閉じると全てが青くなる。

夏の薄明の濃い青は、

いつかの異国で見た空の色。

「どうしても泳げなかった海の青に4時間を足した色」をしている。

窓からぞうっとするような、海が忍び込んでくる。

空気にふんだんに含まれた水が肺にたっぷりと入り込んできて

思いがけずに、溺れそうになる。

この身体に水がさかのぼっていく。

 

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うつくしいものならいくらでも見た

この世のものでないようなものも

日常に潜んでいるものも

そのほとんどが光に照らされていたように思う

目を細める。手を伸ばしてみる。

 

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たくさんの光の中で出会えたあなたにありがとうを言う。