1月31日、ねぼう
東京では雪が降ったりとかしてるみたいですけれど
奈良は寒いだけでよく晴れているなあ。
冬のどんよりさがもう、残り少ないように感じるこの頃です。
思い出の話をしようと思うけれど、
これを読んでいる人は、思い出の話、
もう飽きてしまっているのかもしれないと思いながらも、しちゃう。
わたし、そもそも「思い出」が好きなのだ。
思い出は「起こった事実」とは違うから。
明らかにわたしが体験してきた事柄なのに断片的すぎて書けなかったことがあるとしましょう。
それを思い出そうとすればするほど「事実」と「想像力」は入り乱れて、乱気流の中に頭を突っ込み、ぐちゃんぐちゃんになる。それでもその想像力が働く温度でいろんなことが本当は起きていたのだと信じたい。大事なのは「起こった物事それ自体」ではなく、わたしがそこで見た風景、嬉しい、悲しい、そんなことだよねって思うのです。この話はこれだけです。特に考察があるわけじゃあないもんで。
さて、
「話をするときは人の目を見ましょう」
そんなことを言われたこともあったっけかな、とか思いながら
ずっと好きで大切で、それでもいつかは別れてしまう人たちは
わたしがもじもじと、或いは決意めいた表情で何かを云い出すと
みんな揃って手を握ってくれたことを思い出す。
あの人も、この人も、ああ、あの子もって具合に。
だからわたしもそうするようにしてるんだ。
「ねえ、手を貸してみて」
このあいだ話した彼もそうだったな。
ああ、同じ文化を持つ人だって安心した。
手をとって話すと、とてもとても沢山のことが交換されるから、呼吸が整うから、
安心して言葉足らずを恥じることなく眉間にしわ寄せることなく穏やかに話せるから。
ありがとうに始まりありがとうに終わる、わたしにとっては話し慣れた、そんな話をした。
丁寧に丁寧に聞いてくれた。やっぱり出てくるのはありがとう、だ。
彼には2日したら会えるんです。
嬉しいんです。
今度は何話そうって。
何聴こうかなって。
そんなことで頭がいっぱいなんです。
1月27日、ファンタジア
世間をさぼって生きてきた。
報いはもちろん、ある。
ことばの要らぬ焦燥もある。
ようやく重い腰を上げて動かそうとした
体や頭はこんなにもか、と思うほどに
うまくいかなくていやになってしまう。
バラバラの言葉が降ってくる。
それらを束ねるときの
点と点をつないで線にしていくとき
星座をつくることを、想う。
わたしは未だにそのように生きている。
飲み込めたこともある。
割り切れないことも、
取り返しのつかないこともある中で
光と陰がいつもわたしの側にある中で
それでもわたしはひとりでは生きていけないない世界の、光を信じたい。
うつくしい営みのひとつとしてその光だって忘れてゆくのだから、過ぎ去ってゆけるような涼しい風のようでありたい。
1月19日、傷つける
最近、書くことは朝起きてからするようにしている。
エアコンを入れっぱなしで寝てしまうことがたまにあって、喉が痛む。
そしたらわたしはまだ青い朝の空気を換気のためにそろりと開けた窓から
それを肺に吸い込め、溜め込み、全身に巡らせたそのあとに吐く。
「きのうはきっとまた遅くまで雨が降ってたのだろうな。」
冬の隙間からチラリとやってきた暖かい日のおかげで
外の世界の匂いは、土の、春の、生の匂いがした。
嬉しくなったわたしは少しだけ開けた窓を今度はガラガラと放ち、また大きく呼吸した。
よれたシーツをぎゅ、と
振り落とされないように掴んで
弛緩している脳みその片隅でわたし、
同じようになみだを流しながら
世界の淵に繋がれてる誰かを思い出す
球根を買ってきて水に浸けていたヒヤシンスの花が咲いた。
にんげんと違う呼吸の仕方をする生き物がいるのは安心することだね。
ピンクの花びらが元気そうで、わたしまで嬉しくなるね。
「つつがなくひびはくりかえされていく 」
すきな歌は飽きるほど聴いてもずっと、すきだな
きみに会えたら
うれしかった
それだけのチカラに打ちのめされて
どこまでいけるかな。
どこまでも飛べるなあって、まだ冬の日。