4月20日、雪と砂
「いちばんとんでもないのはあなただわ」
なーんもやらない
なーんもしてこない
学校にもこない
けど見つけちゃったんだなって。
行ってしまったんだなーって。
それで学校に来なくても構わないのよ。
見つけちゃったんだから、それ以外できなくってもいいんだよ、別に。
わたしはそういうのだいすき。
かっこいいじゃん。
けど、残念だったのは戻ってきたとき さみしそうな目をして戻ってきたことだったなあ。
学校に来なかった自分を認めてないんだもん。自分で決めたのに。
そっから何しても、申し訳なさそーにしててさ、目が泳いでるの。
それと、それならそれでかっこよく宣言して欲しかったな、学校来なくなる前に。
で、そっからはいいじゃん、堂々としてれば。
わたし学校休んで写真やってましたって。写真展してました。本つくってました。
写真のことばっか考えてて学校のことなんて考えらんなかったんですって。
ほんっと面倒くさいよ。
あなたがいちばん面倒くさい。
けど、わたしはだいすきなんだよね、そういうの。
*
「一方では感性的で、一方では知性的ではならない。
感性と知性を媒介するものは何か?
その知性は感覚的な世界にも宿っているはずだ。」
というメモがiPhoneにあった。
そんな何年も前に書いたそんなメモのこと忘れていたのに、瞬間にピンと思い出した。
先生のことだと思った。
表層にあるものというよりは、その1つしたの水脈を流れている何か。
マヤの乱暴な緑の中に突然現れた窓みたいな遺跡を見た時に
「エレガントだ」と言っていたこともそうだし、
卒論は作品だというその言葉にしても、
うつくしくない発掘現場って一体何なんだろうっていうあの怒りも、
おそらく緒のようなものだった。
先生は感性的で、知性も兼ねて、うつくしいことを愛していて、そのことを学問されている。
すべてが普段から見えているものでは決してないけれど、
先生の根っこにあるものだということは知っていた。
だからわたしは先生のやってることとか言ったことよりも、
学者である以前に先生を成り立たせている信念やそれが雄大に流れている水脈を
圧倒的に好いているし、信じているんだなと思った。
だからだいすきなんだって言ってもらえたら、とても、うれしい。
この人の前でかっこよく在りたい、うつくしく在りたいと思える人がいるのはしあわせなことだ。
そのために学問は必要なのだな。自分の哲学をしなければならないのだな。
何を選んでも自分が信じること。認めること。責任を持つこと。持とうとすること。目を見て話すこと。
気持ちだけでなくこれから見せるすべてを大事にしたい。
+
横たわる樹木とヘビには
地層と水脈という言葉が似合うと思った
ぬっとりとした中米の熱帯雨林の中でひっそりと佇む。
そして、先生のことを思い出す。
私にとって革命であり続ける人。
+
静物画のような
動きのゆったりとした
写真を撮ること、選ぶことが
多くなったなと感じる
それは今あるものをすんなりと受け入れるちから